麻布テーラーの人々 大河原遁さん

「麻布テーラーの人々」と題し、麻布テーラーと深く関係のある一線で活躍をされている方々にお話をうかがう本連載。今回は、仕立て職人が主人公のマンガ、『王様の仕立て屋』の作者である漫画家の大河原 遁さんのご登場です。このマンガをきっかけに、紳士服に興味を持ったという方も多くいらっしゃるかもしれません。作品にまつわるエピソードをはじめ、スーツの奥深さと面白さ、そしてファッションとしての愉しみ方など、大河原さんならではのこだわりを教えていただきました。

2003年に「スーパージャンプ」でスタートした連載『王様の仕立て屋〜サルト・フィニート〜』が好評を得てシリーズ化され、その後、続編を重ねながら21年間にわたって続いてきた大河原先生の代表作です。連載を振り返られていかがでしょうか。

大河原さん:ありがとうございます。気がつけばあっという間だったような気もしますが、改めて振り返ってみると、確かに良くここまで続いたものだなと、自分でも感心しています(笑)。

実は、当時この仕事を私に振って下さった担当の編集者さんも、単行本を2冊作れれば御の字だと思っていたくらいでしたからね。そもそも、それまでスーツを仕立てたことすらなかった私でしたから。

なるほど。偶然の出会いからスタートした連載を、ここまで人気連載に育ててこられる間には相当なご苦労がおありだったのではないでしょうか。

大河原さん:そうですね。作品づくりはまず監修者である片瀬平太さんから、原案となるネタ(スーツのウンチク)をいくつか写真付きでいただくところから始まります。話の元になるスーツのウンチクがあって、そこから作品の骨格となるようなストーリーを私がひねり出していくという流れになっています。

とはいえ、当時の私はとにかく仕立て服の知識などまったくなかった素人でしたから、片瀬さんにお話を聞きながら、一つ一つストーリーを固めていく

ことにとにかく必死でしたね。もっとも連載初期は、私も片瀬さんも両者手探りの状態でしたから、私から「こういう話はできないか」と持ちかけて、「こうすればできる」と具体的な方法を片瀬さんに提案してもらうようなキャッチボールを繰り返していたわけです。時には、「このネタはストーリーとして組み立てにくいので代案はないか」など、試行錯誤の連続。締め切りに追われながらの作業はとにかく痺れるものでした(笑)

作品をつくりあげるにあたって、特にこだわっていらっしゃる部分を教えていただけますか?

大河原さん:やはり、セリフの掛け合いには非常に気を遣いましたね。一つのセリフをひねり出すのに2、3日考え続けたこともあるくらい(笑)。なにしろ、江戸時代には貧乏を笑われた武士が遺恨に思い、その相手を闇討ちにしたなんて話があるほど。身なりの話題というのは、言葉の加減を間違えると取り返しがつかなくなってしまうほど、デリケートな問題に発展する恐れもありますからね。

なるほど。それでも丁々発止なセリフの掛け合いがとても面白くて、グイグイ作品に引き込まれているうちに、気がつけばあっという間に読み終えてしまっていた、なんてこともあるくらい。しかも、必ずしもスーツに詳しくなくとも、主人公とその周囲の人々との掛け合いだけでも充分に楽しめる作品になっているように思います。 そうした並々ならぬ探究心と努力が実を結び、連載も好評価を得ると同時に、先生自身の紳士服への知識もレベルアップしていったというわけですね。

大河原さん:まあ、気がつけばそうなっていたのかもしれません。とはいえ、純粋にスーツを愉しめるような余裕は、今ほど多くはありませんでしたが……。

本作では天才的な腕前を持つ主人公のテーラーが、様々な問題を服に絡めて解決していく様子が描かれています。その際、カギとなるのは、紳士服に関する奥深い知識で、スーツ好きであれば必ずや共感したり、驚いたりするポイントが随所にちりばめられています。一流テーラーの仕事ぶりをのぞき見するような感動が得られるのも、本作ならではの魅力だと思いますが、そんな本場の雰囲気や本物の仕立て文化に触れるために、イタリアには何度か視察に訪れたそうですね。

大河原さん:はい。これまでイタリアには2回ほど訪れました。北部のミラノ、そして南部のナポリをそれぞれ訪れて、シャツやスーツの工房を見学させていただきました。世界中の洒落者を魅了するナポリ仕立て界の巨匠、アントニオ・パニコさんにお会いして取材する機会もいただきました。

ひと口にイタリアと言っても、北と南では服飾文化が随分と違っていたことには驚きましたね。国際都市、ミラノを中心とした北イタリアはとても洗練された雰囲気で、スーツの作りもかっちりとした印象のモノが多かったのに対し、ナポリを中心とした南イタリアは、人々の性格もおおらかで、職人が仕立てたスーツにもその性格が表れていて、肩パッドや芯地を使わない手法も多く、どこか柔らかみがあって、身体のラインに沿うようなナチュラルな雰囲気が魅力的でしたね。

なるほど。ちなみに、イタリアを視察する中で、何か印象に残った出来事や言葉などはありましたか?

大河原さん:そうですね。特に印象に残っているのが、生地にハサミを入れる、裁断の瞬間が最も緊張する作業なのだと、あるスーツ工房の職人さんが教えてくれたことでしょうかね。やり直しが効かない一発勝負ですから、たとえ熟練職人であっても毎回、緊張する作業だったのかもしれませんね。

確かに裁断は、職人たちの独特な感性と高度なテクニックが反映される工程の一つかもしれません。特に、ナポリでは計算した答えだけに頼らず、感覚でハサミを入れることもしばしばだと聞きます。そんなナポリのテーラー文化を題材にした作品が中心になっていることもあって、前回先生がオーダーされたスーツは、イタリアンクラシックを意識されたスーツだったそうですね。

大河原さん:そうでした。今回、麻布テーラーさんでは、前回とは少し趣を変えてみたいという思いもありまして、ブリティッシュを意識したスーツをオーダーしてみようかと。

そんなリクエストにお応えして、今回は肩周りを程よく構築的に仕上げて、ウエストにも適度な余裕を持たせることで、年齢に相応しい貫禄や風格を備えた英国的な雰囲気に。座って作業される機会も多い先生ですから、パンツは股上をやや深めに、腰周りやワタリ幅にも余裕を持たせた2インプリーツで、ベルトレスのサイドアジャスター仕様にさせていただきました。

大河原さん:ベルトレス仕様のパンツは初めてでしたが、サイドアジャスターでウエスト幅を調節できますし、腰周りがすっきり見えて、意外と穿きやすくて快適でしたね。前回は、秋冬用の生地で仕立てたスーツでしたので、今回は夏でも愉しめるように、通気性がよくて軽い生地をおすすめいただきました。チェンジポケットのディテールも英国的な雰囲気ですよね。

もちろんディテールにもこだわりましたが、実は、生地も通好み。遠目無地に見えるような、珍しいチョークストライプは、モヘアがブレンドされたイタリア、ヴィターレ・バルベリス・カノニコ社の平織り生地です。モヘアならではのシャリ感を持った生地は、触れてもベタつく感覚が少なく、正に夏向けの素材。シワにもなりにくい生地ですから、汗ばむ夏の時期でもパンツのシルエットが崩れにくく、扱いやすいのが特徴でもあります。前回のお色目がグレーということもありましたので、今回はベーシックなネイビーでご提案させていただきました。

大河原さん:仕立ても軽くて、生地の通気性も良いので非常に快適ですね。

さらに、快適さを追求するポイントとしてこだわったのが裏地選びでした。パッと見では分からない裏地ですが、実は、その選び方次第で暑さ対策やファッション性にも大きな影響を与えることがあります。 今回の裏地は、ふじやま織キュプラといって、シルクの産地であった富士山の麓で上質な富士の天然水による染めと日本に2台しか現存しない織機で織上げられた至極のキュプラになります。糸に撚りをかけることでハリコシがありシワにも強い、まさに今回選んだ表地との馴染も抜群に良い裏地になっています。

大河原さん:そうでした。このようにちょっとした工夫やこだわりなどもそうですが、やはりスーツ初心者ほど、オーダーを利用した方が、より快適で満足度の高いスーツに出会える確率が高くなるような気がします。自分の好みや着用シーンなどを伝えたうえで、あとは知識豊富なプロフェッショナルの見立てにお任せしてしまう方が、結果として自分に似合う理想のスーツを手に入れやすいと思っていましたが、今回、麻布テーラーさんのオーダースーツを体験させていただいたことで、その思いがこれまで以上に強くなりましたね。

ありがとうございます。その人ならではの魅力を引き出し、自信まで高めてしまうという、まさに先生の作品に描かれているストーリーは、麻布テーラーでも常日頃から大切にしてきた“対面接客”ならではの顧客価値に通底するものがあります。依頼人の悩みを見抜き、凄腕ひとつで速やかに解決へと導くその姿を本作で読んだ後には、きっと自分だけの一着が欲しくなるに違いありません。

大河原さん:そう言っていただけると嬉しいですね。連載はこれで幕を下ろすことにはなりますが、この仕事を通して出会った紳士の服飾文化やオーダースーツとは、今後もプライベートを中心に、また新たな付き合いが続いていくことになると思います。まさに、そんな人生の節目にこそ相応しい、次なるステージへ向かう気持ちをも後押ししてくれるような愛着の湧く一着になりました。

『王様の仕立て屋~下町テーラー~』最終 19 巻 ( 集英社刊 )、大好評発売中


大河原遁(おおかわら・とん) さん
漫画家

1968 年生まれ。群馬県出身。1985 年に第 5 回ニューフレッシュジャンプ賞準入選、
1989 年に手塚賞佳作受賞を経て 1995 年に『かおす寒鰤屋』を「週刊少年ジャンプ」で連載。 2003 年より『王様の仕立て屋~サルト・フィニート~』を「スーパージャンプ」で連載開始。
「グランドジャンプ」にて連載されたシリーズ第4部『王様の仕立て屋~下町テーラー~』が 2024 年 7 月に完結。